プライバシー強化技術とは何か?その概要と必要性について
近年デジタル技術の進展に伴い、個人情報や企業の機密情報といったセンシティブデータの収集、処理、分析、共有が拡大しています。これに伴い、プライバシー侵害のリスクも増大しており、個人や組織が安心してデータを利用できる環境を整備することが急務となっています。そこで注目されているのが、プライバシー強化技術(Privacy Enhancing Technologies, PETs) です。プライバシー強化技術はデータの機密性を保護しながら、そのデータを最大限に活用するための技術であり、データ活用とプライバシー保護の両立を目指す上で必要不可欠な要素となっています。本記事ではプライバシー強化技術について解説します。
プライバシー強化技術の概要
プライバシー強化技術とは個人データや機密データを保護しつつ、そのデータを活用するための技術の総称です。プライバシー強化技術はデータの収集から保管、処理、分析などのデータライフサイクル全体にわたってプライバシーを保護する役割を果たします。具体的には、データの使用を最小限に抑えたり、データを変換してプライバシーを保護したり、データの完全性、機密性、セキュリティを最大化したりする技術が含まれます。
プライバシー強化技術は統計学と暗号学という2つの分野が交差する領域で発展してきました。統計学者はプライバシーにおける制約の中で調査したい統計方法や構造を提示し、暗号学者は制約の中で各当事者を保護するプロトコルとメカニズムを開発しています[1]。
またプライバシー強化技術は単なる技術的な解決策ではなく、データ保護の原則を具体化するものでもあります。つまりプライバシー強化技術は個人データの利用を最小限に抑えながらセキュリティを最大限に高め、個人が自身のデータをコントロールできるようにすることで、データ保護法を遵守するためのツールとしての役割も担っています[2]。
プライバシー強化技術の必要性
プライバシー強化技術の必要性は以下の3つの観点から説明できます。
- データ活用の促進: 現代社会においてデータは経済成長や社会問題ビジネス上の課題の解決に不可欠な資源となっています。しかしセンシティブなデータを安全に共有、分析できる環境が整備されていなければ、その潜在的な価値を十分に引き出すことには限界があります。プライバシー強化技術はプライバシーを保護しつつデータ共有を可能にすることで、データ活用を促進します。
- プライバシー侵害リスクの軽減: サイバー攻撃の高度化やデータ漏洩事件の多発により、個人や組織が保有するセンシティブデータが脅威にさらされるリスクが増大しています。プライバシー強化技術はデータを暗号化したり匿名化したりすることでプライバシー侵害のリスクを軽減し、データを持つ主体からの信頼を得るために重要です。
- 法規制遵守: 世界各国で個人情報保護に関する法規制が強化される中、企業や組織は法令を遵守しつつデータを活用する必要があります。プライバシー強化技術はデータ保護法が求めるプライバシー保護要件を満たすための有効な手段となります。例えばGDPR(一般データ保護規則)は、プライバシーバイデザインとプライバシーバイデフォルトを求めており、プライバシー強化技術はこれらの原則を実装する上で重要な役割を果たします[3]。
プライバシー強化技術の例と分類
プライバシー強化技術はその機能や目的に応じて様々な分類がなされています。ここではOECDが提唱する分類に基づき、主要なプライバシー強化技術の例を解説します[2]。
データ難読化ツール(Data obfuscation tools)
- 匿名化/仮名化 (Anonymisation / Pseudonymisation): 個人を特定できる情報を除去または変換しデータの利用を容易にする一方で、識別リスクに注意を払う手法です。仮名化は匿名化よりも可逆的な方法で個人識別情報を削除します。
- 合成データ (Synthetic data): 実データの統計的特性を模倣した人工データを生成し、機械学習などの用途で個人情報を保護する方法です。
- 差分プライバシー (Differential privacy): データにノイズを加えることで、特定の個人がデータセットに含まれているかどうかを推測できないようにします。
- ゼロ知識証明 (Zero-knowledge proofs): ある主張が真実であることを、その主張の内容自体を明かすことなく証明できる暗号技術です。
暗号化済データ処理ツール (Encrypted data processing tools)
- 準同型暗号 (Homomorphic encryption): 暗号化されたデータを復号せずに演算できる技術であり、データを秘匿したまま分析を行うことを可能にします。
- マルチパーティ計算 (Multi-party computation, MPC): 複数の当事者が、それぞれの秘密情報を公開せずに共同で計算を行い、結果のみを得ることができる暗号技術です。またOECDの定義としてMPCに含まれるプライベートセットインタセクション(Private Set Interaction, またはPSI)はマルチパーティ計算の一種で、複数の当事者がそれぞれ持つデータセットの共通部分をデータ自体を公開せずに特定できる技術です。
- 信頼された実行環境 (Trusted execution environments, TEE): ハードウェアレベルでデータ処理を保護し、不正アクセスや改ざんを防ぐための安全な実行環境です。
連合、分散分析 (Federated and distributed analytics)
- 連合学習 (Federated learning): 各デバイス上で個別にモデルを学習し、学習済みのパラメータのみを集約することで、個人データの持ち出しを最小限に抑える手法です。
- 分散分析 (Distributed analytics): データを一箇所に集めることなく分析を実行し、プライバシーリスクを低減するアプローチです。
データアカウンタビリティツール (Data accountability tools)
- アカウンタブルシステム (Accountable systems): データへのアクセスや利用ルールを設定適用し、ログの追跡によってコンプライアンスへの順守を検証できる仕組みです。
- しきい値秘密分散法 (Threshold secret sharing): 機密情報を複数の断片に分割し、特定の数の断片が集まらないと再構成できないようにする方法です。
- パーソナルデータストア / 個人情報管理システム (Personal data stores / Personal Information Management Systems): 個人が自分のデータを自ら管理し、必要に応じてアクセス権をコントロールできるサービスやシステムです。
これらの技術はプライバシー保護を強化し、データの安全な利用を促進するために活用できます。またこれらの技術は単独で使用されるだけでなく組み合わせて使用することで、より高いレベルのプライバシー保護を実現できることが考えられます。
プライバシーテックについて
プライバシーテックとはプライバシー保護を目的とした技術やサービスを提供するサービスや技術を指す言葉です。従来のセキュリティ技術に加えプライバシー強化技術のような比較的新しい技術を活用したソリューションも含まれます。プライバシーテックは様々な分野で活用が進んでおり、その市場は急速に拡大しています。例えば、金融業界におけるKYCやAML(アンチマネーロンダリング)に対して、ゼロ知識証明やマルチパーティ計算を活用する提案などがあります[4]。
参考文献
[1] United Nations, THE PET GUIDE: https://unstats.un.org/bigdata/task-teams/privacy/guide/2023_UN%20PET%20Guide.pdf
[2] OECD, Emerging privacy-enhancing technologies: https://www.oecd.org/en/publications/emerging-privacy-enhancing-technologies_bf121be4-en.html
[3] Maisha Boteju, Thilina Ranbaduge, Dinusha Vatsalan, Nalin Asanka Gamagedara Arachchilage, SoK: Demystifying Privacy Enhancing Technologies Through the Lens of Software Developers: https://arxiv.org/abs/2401.00879
[4] Carsten Baum, James Hsin-yu Chiang, Bernardo David, Kasper Frederiksen, SoK: Privacy-Enhancing Technologies in Finance: https://eprint.iacr.org/2023/122